このことは、いわゆる虚時間が本当は実時間で、われわれが実時間と呼んでいるものは、われわれの想像が構成したものにすぎないことを示唆しているのかもしれない。
実時間では、宇宙は時空の境界をなす特異点にはじまりと終わりを持っており、そこでは科学法則は破れる。だが虚時間では特異点あるいは境界はない。だとすると、虚時間と呼ばれるのが本当はより基本的なもので、実時間と呼ばれているものは、われわれが考えている宇宙像を記述する便宜上、考案された観念にすぎないのかもしれない。
しかし、私が第一章で述べた見方にしたがえば、科学理論とはもともと、われわれが観測を記述するためにつくった数学的モデルに他ならず、われわれの精神の中にしか存在しないのである。だから、どれが実は“実時間”であり、“虚時間”であるのかとたずねるのは無意味だ。どちらがより有用な記述であるかというだけのことである。
スティーブン・ホーキング、『ホーキング、宇宙を語る--ビッグバンからブラックホールまで--』p200
ひとまず、時間をさかのぼる。
先日、スティーブン・ホーキングの訃報を知っておよそ10年ぶりくらいにかれの著書『ホーキング、宇宙を語る』を読んだ。もともと持っていた本は実家の書庫に置いてきてしまっていたので近所の本屋で買い直した。
10年前、大学2回生だった当時のぼくはといえば、大学の授業に熱心に出席するタイプの学生ではなく、朝から晩までサークルの部室で楽器の練習をしているみたいな学生で、とうぜん成績がよいわけなどなかったけれど、なんとなく将来は学者になるんだろうなという絶望的な思い込みに等しい希望的観測を持っていた。そのとおりに大学院へ進学し、博士課程に進み、留学やら何やらいろいろと経験させてもらっておきながら、けっきょくは博士論文を書かず「単位取得中退」というかたちで大学を出てしまったことについてはひとえにぼくの至らなさでしかないのだけれど、当時ぐるぐる頭のなかで考えていたかたちにならなかったあれこれについてこうして連載コラムというかたちで世に出せることは、ありていなことばになってしまうけれど不思議な気分だ。
『ホーキング、宇宙を語る』はたしか住んでいたアパートから自転車で5分ほどのところにあった24時間営業の本屋さんにおいてあって、とくべつ宇宙に興味があるわけではなかったけれど、中学・高校のときから抱いていた漠然とした「ブツリ」へのあこがれでその本に手を伸ばしたのだとおもう。
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牛肉の特売日に夢を話さない分別
ぼくは淡路島のごくごく平凡な、全校生徒のうち半分以上がセンター試験を受験しない公立高校に通っていた。2年の夏を過ぎたあたりから進路面談で担任のことばが厳しくなって、三者面談に同席していた母は、のらりくらりとじぶんの進路について決定的なことばをさけるぼくに対して言い放った担任のあまりにも厳しい詰問に食欲が失せたらしく、いまでも実家に帰るたびにその話をよく聞かされる。その日、スーパーでは牛肉の特売日で、母は面談が終わったら牛肉を買って帰り夕飯は焼肉でもしようと考えていたらしいのだが、けっきょくまっすぐ家路に着いた。一家の食卓が貧しくなるほどの詰問が浴びせられたのはどうやらぼくだけではないらしく、おなじ志望校だった中学からの同級生のTくんも同様だったらしい。かれの母もまた牛肉の特売日を見送った。
その当時のぼくはといえば、はたから見れば「ちょっと数学と物理の成績が良いだけの特になにもしたいことがない少年」というクラスにひとりはいる高校生で、もちろんこの平凡さは大学生やおとなになったところで本質的になにも変わらなかったわけではあるのだけれど、この頃にはもう「学者になりてぇな」みたいな気持ちを抱いていた。少年まちゃひこのめんどくささは、それがどれだけむずかしく、非現実的なものであるかをわかる程度の分別をもっていたことで、そうしたことはぜったいに口に出してはいけないとおもっていた。数学や物理が好きだから理系にいく。じぶんの進路についてそれ以上の理由づけをけっしてしようとしなかった。
はじめての活字、はじめての自然科学
ぼくにとっての最初の「物理」は、さらに時間をさかのぼり小学生のときになる。
小学5年生のときに「まっこん」の愛称で生徒から信頼と侮蔑を一身に集めていた担任が、理科の授業のときに柳田理科雄『空想科学読本』の話をした。ウルトラマンがほんとうにこの世界にいて、ほんとうに怪獣と取っ組み合いのケンカをしたり、あたりにウルトラ水流を撒き散らしたりしたらどうなるのか、ということを独自研究したその本のことをおもしろおかしく話しながら、次々と少年少女の夢を嵐のごとくなぎ倒していったのだが、かれが繰り出す荒唐無稽な笑い話を真に受けたぼくは、その年のお年玉で件の本を買った。たぶん、はじめてじぶんで買った活字だったはずだ。
いまにしておもえば当然といえば当然だったが、ぼくはその本に書かれていたことをほとんど理解できなかった。まっこんが楽しげに話していた「ウルトラ水流」の箇所も、「真空」とはどういう状態かも知らなかった小学生にとって、なぜ周囲の建物が内側からの内圧によって破裂するように破壊されるのかがまったくわからない。局地的な「真空」が北半球を中心に大規模な異常気象を引き起こすと考えられるのか、そもそもその本で語られる終末的な情景がどのようなものなのかもまったく思い描けなかった。
しかしそれでもぼくは、空想の世界で起こる自然科学についてユーモラスな筆致で書かれたその本をことあるごとに読み返した。そして中学生になり、図形の合同や相似を証明するという数学を学校で習ったとき、だんだんと柳田理科雄氏が『空想科学読本』でなにをやっているのかが感覚的にわかるようになった。
数字や数式とは、「ことば」だ。
この気づきはぼくにとってほんとうに大きなものだった。のちに柳田理科雄氏への反論が多いことや、検証にあたっての不備がいくつもあることを知ることになったのだけれど、いまなおぼくにとってそういうことはどうでもいい。この本がなぜ「おもしろい」のかという根本的な部分は、数字や数式が持っている「言語性」を軸に据えていたからだとぼくは知った。
自然科学を語る言語としての「数学」。
ぼくの物理へのあこがれは、そんなことばをぼくもつくってみたいという欲求に他ならなかった。
自然科学の詩情
けっきょくのところ、ぼくは物理学者にはなれなかったし、そうじゃないところで「ことば」をやることのほうへの興味が強くなってしまっていまに至る。気がつけばコラムや文学作品の書評、小説の実作などをするようになったいまの状況を、おそらく10年以上むかしのぼくには想像だにできなかったにちがいない。
しかしやはり物理をはじめとする自然科学への「あこがれ」はいまなお強く残っていて、今回「ホーキング、宇宙を語る」を読んで、あらためて「自然科学を語る言語」のことをおもった。
『ホーキング、宇宙を語る』では、物理学の歴史をふりかえりながら、宇宙の構造やすべての現象を語るための言語「大統一理論」についてのホーキングの物語を述べた本だ。語られる内容はすべて数式をぼくらが日常的に使うことばに「翻訳」されたものであるけれども、ホーキングの意思によりただひとつだけ数式が使われている。
E=mc2
相対性理論のなかでももっとも広く知られているこの数式は、簡潔さゆえの詩情を帯びている。
この世界には理解が容易ではない複雑な事象に満ちているのはいうまでもなく、そうした世界に対して先人とみずからに内在することばでもって立ち向かう無邪気さと勇気に、ぼくは純粋な尊敬を抱いている。アインシュタインやホーキングといった優れた科学者が持つ「詩情」がひとりでも多くのひとにとっての現実であればいいななど、そういう弱い祈りいかぼくにはできないけれど、ただこの世界がこうした詩情で綾なされていると信じられる世の中だったなら、高2のあの日、ぼくは担任を説き伏せて牛肉を食べることができたはずだと、いまなら大真面目に信じられる。
※【たわごと日和。】第1回 「発想」はどこからやってくるのか……羽生善治の「大局観」とAIによる「演算処理」
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【著者】まちゃひこ
京都大学大学院に在学中、日本学術振興会(JSPS)特別研究員やカーネギーメロン大学への客員研究員としての留学を経験。博士課程を単位取得中退後、いろいろあって広告代理店の営業職として就職。そしてまたいろいろあってフリーライターとなる。文芸作品のレビューや自然科学のコラムを中心に書いている他、創作プロジェクト「大滝瓶太」を主宰し、小説の創作や翻訳を行っている。電子書籍レーベル「惑星と口笛ブックス」より短篇集『コロニアルタイム』を2017年に発表。読書中心のブログ『カプリスのかたちをしたアラベスク』やTwitter(@macha_hiko)でも発信中。
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